期待あるいは取引、または希望

2019年11月13日水曜日

よしなしごと

有機体である以上、衰えることは
仕方がない。
周りから言われずとも、
自分が年齢を重ねて、劣化してるのは
(見た目とか体力とか色々色々色々)
(別に若い時素晴らしかった訳じゃない)
イヤってほど自覚していても。


昨年故障してから、
いや、本当はもっと前からかもしれない。
「衰える」
「失くす」
ことへの恐怖に追い立てられていました。


積み上げて獲得したものが
激減りしたことはわかっていて、
それを取り戻したいから、
埋めないといけないから。


練習がきついのは当たり前だけど
それとは違う種類のきつさで
とても苦しかったです。
まったく楽しくなかった。


苦しくつらかった土山を走り終えて、
4時間を越えるタイムを見て、
それでも、なお、
「よく、やった!」と思いました。
思った自分が不思議でした。


あきらめた、といえば
そうなのかもしれないし、
キレイな言葉にくるんで
楽な方に逃げたといえば
そうなのかもしれないし。


よくわからないので
感じた通りに書こうと思います。




減ったものを埋めるんじゃない。
もう、持ってなかったんだ。


と、思いました。


自虐とか自暴自棄とかではなく、
悲しいとか悔しいとかではなく、
ただ、静かに、
ああ、そうだったんだ、と
ものすごく腑に落ちました。


なんていうかな...
足元が、照らされた感じがしました。
ここにいたんだ、と理解した
というか。


そしてそれを理解しても
心は、とても凪いでいました。
あんなに恐れていた、その時が
やってきたのに。
わたしは、わたしを
責めないでいられている。


こんな気持ちでいさせてくれて、
ありがとう。


神様からギフトをもらったな、と
そんな風に感じました。


持っていたと思っていたものを、
もう何も持っていない、
ということはわかった。


その上で、
あらためて、自分がどうしたいのか、
特にフルマラソンをどうしたいのかを
考えてみました。


・やりたいことしかやらない。
→今まで通り。
「それをやりたいか、やりたくないか」
シンプルに考えて
やりたいと思ってやれる状況なら、やる。
で、やりたいことやったんだから
なにがあっても四の五の言わない。


・フルの楽しみ方
→ひとそれぞれ、色々な楽しみ方が
あって、どれもみんなオッケー。
では、わたしは?というと


練習によって自分の実力を正確に把握、
(正確な見積)
コースなどの特性を踏まえて
レースプランを立てる
(計画)
で、本番を走って、
自分の見積は正しかったか、
計画に無理はなかったか、を振り返り
ダメだった点は次に生かす。


全く楽しそうに見えないかもしれませんが
わたしは楽しい(笑)。

・タイムとのつきあい方
→自分の実力の天井スレスレで走る。
これは、多分今までどおり。
でも、何分切り、という区切り
は、もうしないで、
「現状の実力の」天井スレスレで。
走って、
現状を正確に把握できたなら、
次は「その少し上」を目指す。
「少し」の幅がどのくらいなのか、
それは練習によって判断する。
飛び級しようとしない。
幅ゼロの場合もあると思う。
練習は継続できてこそだから
自分の身体の状態を客観的に観察して
慎重に。

・しんどさと取引しない
→少し上を目指すとき、練習はしんどい。
わたしはバカだから、
「こんなにしんどいんだから
結果をすぐもらって当たり前」って
思ってたんだと思う、一方的に。
それが自分を苦しめていたと思う。


・ひとと比較しない
→そこには、過去の自分も含む。
今持ってないものを、
あれこれ考えてもムダ。
他のひととも、もちろん較べない。
誤解を招く言い方だけど
影響を受けない。
自分の行動のきっかけにしない。
励みにもしない。
じぶんと違う人と同じことはできない。
ご活躍に心から拍手して、
遠くから応援する、それだけ。
同年代であったとしても
共通項は、ただ「同年代」というだけで
どこも同じではないのだから
同じことはできない。



これもまた、観念的な書き方になりますが
すべてにおいていえることでしょうが、
無意識にでも、「期待」すると
苦しい。(わたしは)
こうなるはず、とかって、
ならなかったとき、苦しい。
取引するのと似たところがあるのかな。


期待するんじゃなくて希望を持つ、
と最近どっかで読んで、
あーそうなれればいいのになと思いました。




自己啓発的でちょっと気味悪い書き方では
ありますが、
同じ量の、なにかの行動をするとき、
こうしたから、こうなるはず、あるいは
こうしてよ、という
期待とか取引じゃなくて、
こうなればいいな、だから、そのために
こうしよう、っていう方が
ニュートラルでいられる気がする。


お読みいただいている方には
ホンマに、心底、知らんがな、
なハナシだと思うのですが
自分がそう感じた備忘録、ということで
どうかご容赦いただければ
と、願っております。




日曜日、奈良マラソンのコースを
20km走りました。


ジョグではなくて、
今このくらいが天井かな?というペースで。
走りながら
残りの距離を考えながらペースの
押し引きをしたり、
下りでどのくらい詰めれば脚が残るか、とか
考えていました。
200分切りを目指して走っていた時と
ペースは比べ物にならないほど
遅いけど、
やっていることは変わってませんでした。


時計を止めたとき、
「あー、自分はまだ、やれるなあ」
と思いました。


今までがそうだった、という訳では
ありませんが、
目に止めていただくような
タイムで走ることは、
もうできないでしょう。


でも、
自分がどうしたいのかは
よくわかりました。


自分なりの「少し上」を目指して。
じぶんのお庭の中で、ひっそりと、
でも今までより少しだけ、
のびのびと。


また、ぼちぼち頑張ろうと思います。

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